昭和五七年一月二十七日朝の御理解
x御理解第十四節 「神は荒れ地、荒れ屋敷をお嫌いなさる」
世界中には、どれほど荒れ地、荒れ屋敷があるやら想像もつかないほどです。私共の心の上においても、やはり限りない、まあ豊饒な地とでも申しましょうかね、豊かな美しい有難い心というものが限り無くこう広がって行く。そこに、ひとりでに物が出来る様なおかげも頂けるし、勿論、自分の心の荒れ地荒れ屋敷の事です、ね。
昨日、久留米の石田先生がお参りされて、毎日お参りされてみえますが、もうそれこそ、z何か身がジ-ンとする様なお知らせを頂いておられます。それを聞かせて頂いて、事実私はジ-ンといたしましたんですけれどもね。お夢の中に、大平原だそうです、ね。いわゆるもう、それこそ地平線が彼方に見えるといった様な所じゃないでしょうか。そん、大平原の向こうにお神様がお祭りしてある。いわゆる地平線の彼方にです。そしてあの、御大祭の時にここで開扉をいたしますね、あん時に、いわゆるギイギイといった様な開扉の音が、その音がね、もう、するんだそうです。そしてその中から、その神様が、私はまだ神様を拝んだ事はないですけれども、神様がお現れになってね、そしてクルッと、こう向きを変えられたというお知らせであった。そしたら何と、その向きを変えられた半分は、親先生のお姿であった、というお夢であった。
どういう事だと思うですか。私の願うところ、そりゃもう、いわゆる天地人一如の世界というのですけれどもね、私がそういう、なら、神様が回れ右をなさったら、後ろは親先生であったという様な、いうなら私は願いを持って、大きな願いを持っておるという事だと思うんです。私が今そうであるという事じゃない。しかも、いわゆる大平原という所から、私は今朝のこの御理解を頂いてね、もう兎に角世界中にどれほどしの荒れ地、荒れ屋敷、いわゆるおかげの頂けない人がどのくらい沢山あるかわからない。もう自分の心の上にも荒れ放題、いわゆる我情我欲でいっぱいで生きておる人達の姿を、大平原に改めて感じるんです。
私、今朝から私共が合楽に御縁を頂いて、不思議な不思議なこの、合楽に縁を受けたという事だけでも、大変な不思議な働きなのですから。その不思議な働きと、その御神意というか、ね、私はいつも申します様に、合楽で御信心の稽古をなさっておられる方達は、ま、キリスト教にいうなら選民、ま、選りに選られた中、そん、選民の中の選民というくらいの、それぞれの自覚というものがなからなければ、私は、今日私が言おうとしておる事はわからないと思う。んなら、ね、それこそ大平原の様に、ま、いうならば荒れ地、荒れ屋敷がいっぱいである。そんなら、お前の心の中はどうかと、そういう事がわかり、そういう事の頂けれる自分の心を、いやが上にも豊かに大きくして行けれる手立てを日々習うておるところの、お前自身はどうなのか、と問われ、又、自分で問うてみなければならないと思うんです。
今日は築水地区の信徒共励会が合楽が当番で、しかも今度はその講師私にしてくれ、という事であります。私、今朝からその事をお願いさせて頂いておりましたのですけれども、まあ、結局私が話すところはいつも同じで、結局、誰でも願っておる豊かな心、大きな心、しかもそれを美しい心とね、何故か、それを願わにゃならんかというと、お互いの願いが、昨日の御理解でないけれども「一心に壮健で繁昌する様に願え」というその願いを持ってるのですから、皆そういう願いを持ってるのですから「どうぞ壮健で今日も繁昌いたしますように」一心に願っておるのですから、だから、その願いが成就する事の為にはどうしても、井戸は清水になるまでの、おかげを受けなければならない、という事を昨日は、津矢崎の松村先生達御夫婦の事と、それから西分会、また、くの一会の会長でもある伊藤さんの事の二つを持ってね、井戸が清水になるまでという、あ-大変な事だろうと。ところが信心というのは、それこそ嬉しう、楽しう、どういう場合であっても、いうならば、普通でいうなら、とても越えにくい、越えられない所でも天地のリズムを感じ頂きながら、神愛を悟らして頂きながら越えるのだから、楽しう有り難う越えられる、というのが昨日の御理解でしたね。それには、いわゆる天地へ対する還元の事を、まあ、あのう伊藤さんが総絞りの着物を着て、そして天地との交流を願え、はかっておられる所の、もうそりゃもう大変な微妙なお知らせ頂かれた話を、昨日聞いて頂いたんですけれども、ね、天地との交流が始まるとね、もう兎に角暑い寒いはないです。只有難いだけです、ね。只、もうそれこそ、有難いという心が心の底から湧いて来るのです。そういう中にあって、んなら、汲み上げても汲み上げても濁って水が出ておるというその事自体が有難いのです、ね。それには、例えば松村先生達御夫婦が頂かれた、昨日松村先生がお夢に頂いて、あのう原辰徳という野球の選手がおるんですね、だから腹が立つという事じゃろと私は改めて、又、昨日は感じたんです、ね。その腹が、腹の立つ様な事じゃおかげは頂かれん、ち。その為には、ひとつ文雄先生じゃないばってん、「一生腹は立てません」といった様な本当の大きな願いを立てて、なら、一生腹たてんちゃ、そうに困ったこっじゃろ、ち言うこつはなかですよ。こげな極楽はないですよ、ね。ですから「一生腹は立てません」といった様な、いうなら大願を立ててですよ、いうなら心を荒らす様な事はしません。荒れ地、荒れ屋敷にはいたしません。いつでも種を蒔きゃ喜びの芽が出て、喜びの花が咲いて喜びの実が実る様な心の状態を頂く為には、為にはまず松村先生夫婦が頂いておる様に、家内が天の心であるならば、主人は地の心、地の心とじゃないですけども、その、頂きますという心あらばあたる事なしという、いわゆる大地の信心、本気で有難く頂いて行けば障る事も当たる事もない、という実験実証の年だというふうに、ま、頂いた。その実験実証をさせて頂きながら、天の心、限り無い美しい麗しの心にならせて頂く精進、それには、例えば原辰徳ではいかんちいうね、そいで、その、私が英語で、その電話で言われたと思ったもんですからね、私がそれを忘れたんです。
その夢の中でz原辰徳のお知らせ頂いて言っておる事がね。ところが、こんなふうに書いてもらうなら、私でん覚えられん事なかったと思うですけども、死のノックと頂いたんだそうです。だからちょっと、私はそいが英語と思とるもんですから覚えられなかった。ところが死というのは、死ぬる生きるの死なんです。野球選手はこういうひどい修行をするそうですね。これは守備の修行だそうです。受け身の修行だそうです。これはもう死のノック、死、叩くという事でしょう、ノックというのですからね。もう、それこそ決死の、というでしょうか、ね。いうなら一生腹は立てませんと。原辰徳じゃなくて、腹は立てんと。腹の立つ人間が、いうならば決死の思いでですよね、決死というと大変な表現ですけれどもね、
兎に角、一生懸命で腹は立てません、といった様な修行に取り組むという事は、いよいよ天の心、地の心そして神様の心がいよいよわからしてもろうてね、兎に角天地の親神様の眼からご覧になれば、昨日、石田先生が頂かれた様に、それこそね、もう広漠としたというでしょうかね、いわゆるその平原地帯、まあだ原野である。ここを、いうなら耕して行くなら大変な、ま、おかげになる事でしょうが。そんならば心が豊かで美しうて、いつどんな種をでも蒔ける様な、蒔いたら必ず芽が出る様な心の状態という様な人が、果たしてどのくらいあるだろうか、ね。もう、合楽のだけ、そういう教えを頂いておるのは、ま、金光教の信者は皆頂いておるわけでしょうけれども、とりわけ、なら、誰でもその気にならば出来ると言われる様な修行の手立てを頂いておるのは、合楽の皆さんだけである。その合楽の皆さんの中に果たして幾人そういう自覚に立って、信心の修行をしておる人があるだろうか、という事になるわけですね。大平原の中のほんの、いうならば自分のおる所だけでも、ひとつ豊かな心にしたい、美しい心にしたい、しかもね、信心がわかればわかるほど、おかげ頂き頂き神様の心にも通うて行こうという信心の稽古をせにゃあいかんです。
昨日は日田の綾部さん所の娘さん達御夫婦が、もう、四、五年カナリアンコ-ヒ-ショップという喫茶店を経営しとられます。丁度去年の暮れがまる五年になっておかげを頂いて「親先生、おかげで借金もきれいに済みました」と、そいでもちっと、まあ儲かる仕事ちいうかね、で、こういう様な商売を思い立っとりますが、というお礼であり御伺いで夫婦で参ってみえました。そいで私が申しました。「あなた達が一番初めに、あの喫茶店を持つ心もちになってね、あのう今の喫茶店を続けなさい。あれに変える、これに変える迷いなさいますな。」と色々御理解頂いて夫婦の者が腹が決まった。そして帰って夫婦で話し合った。親先生があげん言いなさったから、なら、いよいよいわばカナディアンコ-ヒ-ショップ店ね、のいよいよ繁昌の為にと言うて夫婦で話し合った事がです、あの休日を日にちを変えようという事であった。今までは何日だったけども、これからは六のつく日、六と言やあお徳と合楽では言われるそうだから、その六のつく日をお休みにしょうではないですか、と言うて、ま、二人で話し合った。それもどういう事かというと、いつもその御大祭の御案内を頂くけれども、いつの場合でも、いうなら、春夏秋冬の御大祭は十六日である。
で、ご案内頂いておってもお参りがでけん。だから、お父さんどうでも六の日を全部カナデアンコ-ヒ-ショップの休日にしましょうじゃないですか。というて話し合ったら主人もそりゃよかね。というてお届けに見えました。だからほうよかところに気が付いたな。と、ね。言うて、まあ、お取次ぎさせて頂いたときでございます。
けれどもその次に参ってきてからのお届けです。あの、六の日をお休みにしましてから、六の日は夫婦でお参りの日とこう決めた。おかげでもうその頃を境にまた、店に新しい活気が生まれた。というてお届けがございもした、ね。
私は思うんですよ。そいや、月に何回かしか、んな、参って来んです。けれども、いくら日参、日参り、夜参り、それこそ神様の前に逆たんぼうったところで、神様に通う、そこに何物かがなからなければ、言うならば神様と私共の中にパイプがつながらんです。小さいパイプであっても、パイプが出来たようなもんです、ね。
いつも十六日という日を御案内頂いておるのにもかかわらず、御大祭にはお参りがでけん。だから、六の日にしましたじゃないですか。
私は神様がもうそれを聞いておられる時に、本当にわが意を得たり、というようにしてお喜びになったんじゃないかと思うんです。そんな感じがしたです。まあだ信心はわかりません。幼稚です。ところが昨日、また、ま、十六、六の日ですから夫婦で、ここ、お届けに見えてから、親先生わからん事があります。と、昨日、主人の方が言われますもん。どういう事が分からんの、ち。私、いうたら、二十五日の日は婦人部の方達の、あれは新年宴会でしょうか、ありました。ほいで丁度、日田の方達のお世話まいでしたからお母さんからお願いがあったんですね。娘さん、きぬ子さんと言います。そりゃあもうすばらしい踊りを踊られる。藤間の名までももらっておるけども、御神意のまにまに、それこそ、もうすっぱり踊りの方を辞めてしまったんですけれども、ね。けれどもやっぱり、その、何て言うんでしょうかね、筋がいい、というですか。もうこりゃあ、素晴らしい。まっ、天才的な踊りを踊られる方です。だから、ああ、あれでやっぱり続けていかれる。立派なお師匠さんが出けられたんじゃろうけども、その、踊りを辞めろ、という事で長年の、そのいうならば、お母さんもその為にかけておられる。その為にわざわざ舞台まで家作られた位ですからね。今、御大祭がある時に使っとる部屋がそうなんです。もう檜作りの素晴らしい。言うならあれは御神殿に作られたんじゃない。娘の踊りの稽古をする為に作られた位に、まあ打ち込んでおられた事だけれども。御神意がね、もう辞めよ、と頂いたから。そりゃあもう、きぬ子さんとしては寝つく位にあったんです。やっぱり、ね。なら、子供ん時からずうっと稽古して、もう、お師匠さんも同じ藤間の素晴らしい、藤間の先生を求めて、よい先生を頂いて、云々。私は、まあ余談ですけども、もう辞められる年、福岡の電気ホ-ルでしたかね。いわゆる、温習会のような会がありました。招待を受けて参りましたが、そりゃもう素晴らしい。あのう、千本桜の忠信のもありましたが、素晴らしいです。身体は小さいけども、なかなかあの素晴らしい踊りを踊られる。あれだけの稽古をした人が、ま、ぱっと、親先生の一言でよう辞められた事じゃあると思う位。ま、信心もない時ですからね。ただ、お母さんの信心があるというだけ。まあそんな色々、あれが有りますが、その、昨日のお届けもそうでしたが、ね。お母さんが、きぬ子さん今度、あのう、合楽で婦人会の新年宴会がある。それであんたあのう、踊りの御用をしてくれんか。ち、言うて頼まれっとたちいう、ね。お母さんが頼んだ、ね。ところが、あのう、ずらっと三軒喫茶店が並んであるそうで、その一軒がその日は休みでもないのに、その二十五日の日に休まれた。そいで夫婦で隣が休んどるけん今だ、いよいよ忙しいからというのでね、その御用をま、御無礼した。とこう言うのです。ところが先生、不思議な事にも、いつものよりも商いが無かったげなたい。はあ、私は、おかげ頂いたの、ち、いうた事でした、ね。
もう神様が分かろうと、少し分からせるのと、より本当に分からせようとなさる、ね。これはあなただけしか出来ない御用、というその御用がね、例えば、んなら、忙しかろうけれども、それをほって、神様の方へ心を向けよ、という私は神様のお知らせだと思う。今頃は、例えば六の日を休みにしよう。今頃、十六日という御大祭に参った事がなかった。それは休んでからは、とまでなかなか出来なかったけれども、お父さんこれから六の日を休みにして六の日は合楽に御礼参拝にしようじゃないですか、という事になった。
お陰で、その境のようにお店に活気が出て来た。小さいパイプが通うて来た、神様と。参るとか、拝むじゃない、神様の心にピシッとこう響くもの、ね、通うものがそこに生まれた。だからそのパイプを「きぬ子さん、もう少し大きゅうせやんいかん」という事を昨日私が話したんです、ね。例えば、んなら、これは自分でなければでけんといった様な御用がある時に、よしどういう忙しいという事であってもね、これだけはひとつこれから御用さしてもらおう、という様な信心がそれに少しでけたら、ね、今までの小さいパイプが少しは又大きくなる。この大きなパイプが、いうなら、いよいよ大きくなって行くという事になればね、いわば、信心の喜びであり楽しみであり、しかもそこには、驚きを感じるほどしの働きが生まれて来るのです。ね。為にはどうしても神様はそれこそ、這えば立てであり、立てば歩めという親心の働きというものを感じる。又、感じて、そこに応えていく信心がでけなければならない。そして、ぎりぎりのところ「死のノック」というほどしに一生懸命にならなければ出来ない様な、ね、「一生腹は立てません」と、例えばいう様な願いが立てられる様になったら、いよいよ天地との大きな交流の、いわばパイプがでける事でしょう、ね。そして、いうならば願うところは、天地人一如の世界をめざすという事にもなってくる。おかげを頂いて、ね。
私は今日の築水信徒会の講師としての、いうならおかげをです、向こうて願わせて頂いておりましたら、沢山お参りをして来るでしょう、その沢山な人が、どうぞ信心がより本当にわかってくれる様に、より、お陰の頂けれる、いうならばパイプでもでける様なお陰を頂けたら、という様な願いをもっておりましたら、神様からね、「そちらの方の事には関心をもっちゃならん」て、これは私の日々思う事です。こうやって一生懸命、んなら、お話を皆さんに聞いて頂くけれども、勿論、皆さんが助かってもらわなきゃならんのだけれども、本当言うたら私自身の助かりの為であり、私自身の日々のね、信心の確かめの為です。自分の信心を日々確かめて行くのです。自分自身が、いよいよ、より助かり、より、いよいよね、うるわしの心、豊かな心、大きな心になって行く事を楽しみに、日々こうやって御用させて頂いておるのです。その話を聞かれて皆さんが助かってくる、助かって下さらんていう事は、もう神様の分域なんです。私の分域じゃないです。今日も私が、だからそういうつもりで、あの演台に立ちたいとおもいます。今日は何ば話そう、この人が助かる為に、いっちょ、いっちょんわからんけん、わかるごたる信心を聞いてもらおう、と言う様なもんじゃなくてね、私自身の助かりの為、私自身の信心を確かめる事の為に、私自身が、いよいよ、より助からせて頂く事の為にです、の、私は御用をさせて頂こうと思いますがね。そういう心の使い方で、信心の稽古をする事が、とりもなおさず、自分の心の中の荒れ地、荒れ屋敷が段々ね、整うてき、豊かになり、大きくなって広がって行って、それが千人よりも一万人というふうに段々広がって行って、神様の目からご覧になれば、それこそね、広漠たるというかね、いわゆる石田先生が頂いておられる、いうならば、もう原野にも似た、というでしょうかね、そういう、いうならば無駄になっておる、御粗末御無礼になっておる、神様の一番お嫌いになっておる場が、まあだそんなに沢山ある。沢山というよりも、殆どそうじゃないかと、その奥の方で、いうならばね、神様がそれを見守っておって下さる。その神様との心に通う、その神様と、それこそ天地一如の世界へめざして進めておる人達が沢山でけてくる事によって、その分野が開拓されてくる、ね、豊かに段々美しくなってくる。そういう、いうならば悲願をおもちになるのが、神様の御心なんです。為には、まず自分自身の助からなきゃいかん。それは、おかげを頂かなければならんというのじゃなくて、まず自分が助からなければ。それには神様と通う小さいパイプでもよいから、通う様な信心をふっと、こう気付かせて頂いたらそれを実行しなければいけない。又、わからせて頂いたなら、それを実験し実証して行き、ひとつ自分の心を、いよいよ大きな豊かな、いうなら心にしていかなならん、ね。それには、まず天の心であり、地の心であり、又、それには、いうなら、もうそれこそ、身を削り心を削りしての信心修行がなされなければならんという事であります。
今日はそんなわけで、え-、十時からだそうですから、どうぞ皆さんも是非御参拝頂くように、それから皆さんに色々お祈りを頂いておりました竹内先生ところの赤ちゃんが夕べ、女の子だったそうです。昨日は丁度正教先生が誕生日ですもん。「あら、ほんなら同じ誕生日に、あんた生まれるたい、」ち、いうてから、昨日お届けに来た時に言うた事でしたが、昨日生まれるかどうかわからなかったけれども、おかげを頂いて昨日十一時二十三分に生まれたというお届けがしてございました。